大谷 環 エッセイ
「ギターという花」
ギターという楽器はどうしても注意が指先にいってしまうものだ。僕はレッスンの時に足からみていくことにしていて、下半身に力が入っている人にはタッチのことを言うのを控えるようにしている。言っても通じないからだ。まずは「全身」というアイディアを持ってもらうのが先だが、力が入っている人は「頑固」で受け入れを拒むのも確かである。
しかし身体をローカルで扱っているうちは音は磨けない。
これは理論的に確かな裏づけがあるわけではないけれど、経験値としては100%真理である。この力んだ状態ではどんなに素晴らしい(ソルをはじめビラ=ロボスにいたるまで)エチュードも紙切れ以下で、いかに学習しても単に弾いたという充実感(「疲労」と言い換えてもいい)が残るだけで、なんの効果もないのだ。
同じような関係がギターと生活に言える。ギターは美しい花である。楽器はもちろん、その扱い(に)しても、音楽にしてもすべて人工なのだけれど、ギターで奏でられる音楽は自然のものと見まようほどの美しさがある。なにもかも人間がつくっているのだけれど、最終的にはそのすべてに人間が思うように手が出せない自然の「花」のようである。
花を咲かせているのが、生活という土壌である。ギターと共に過ごす時間はプロであれば生活=ギターであるが、アマチュアにとってはそれほど長い時間ではないのが普通だろう。しかし花を咲かせるための土壌が生活すべてであることには変わりない。ギターに関わっている時間(練習の時間)だけがギターの音をつくっているわけではないのだ。からだのコンディションづくり。他の音楽の鑑賞。美術や文学他に興味のあることに対する研究など、あらゆる事が音に現われてくる。
花は木によって色彩形は違う。競べさえしなければその美はもうかけがえがないものなのだ。
