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ひとつの答

てもとに2枚のCDがある。どちらもセゴピアの録音である。1973年、5月と12月にマドリッドでとったもので、彼は1893年の生まれだからこの時齢80である。

どちらの録音もひとことで言えばギターは「へたくそ」である。だが「凄い」のだ。較べてすごいのではなくて、ただ「凄い」のである。

​僕は25才のころまではセゴピアの演奏は全く好きでなかった。妙に甘ったるく、不自然に感じられて、ほとんど聴いていなかったが、グラナダでレッスンを受けて、実際に演奏を聴いたときぐらいから、だんだんと自分のなかでの評価は変わっていって、今はセゴピア抜きにギターを語ることはとてもできない。

​セゴピアに興味を持ち続けている理由は、もちろん彼の音楽が偉大であるということが大きいのだが、それだけではない。「老い」へ答えがありそうな気がしているのももう一つの大きな理由だ。
​ギターは身体の運動抜きには存在しない、肉体は加齢と共に衰えていくのは必然である。スポーツの世界では故障やリタイアというのは当たり前という認識があるけれど、楽器の世界もそれがひっそりとしているだけで、プロ、アマかかわらず日常なのだ。
​つねに身体のメンテナンス、技術のバージョンアップを考え、実行するのを怠っていれば、はやい時期に身体が言うことをきかなくなってくるのは、すこしでも観察眼をもって経験者を見ていけば判ることだろう。10年ぐらいはあっという間で、気がつけば、ちっともレパートリは増えておらず、音楽性もたいして上がらず、という例はいくらでもある。

​セゴピアはそんな加齢にたいして実在するすばらしい答えの一つだと見る。 この録音のセッションはそれぞれ1日ずつで終わっている。ほとんどがテイクワン OK ということだ。セゴピアが「さあどうだ!」と言っているような気がする。

てもとに2枚のCDがある。どちらもセゴピアの録音である。1973年、5月と12月にマドリッドでとったもので、彼は1893年の生まれだからこの時齢80である。 

どちらの録音もひとことで言えばギターは「へたくそ」である。だが「凄い」のだ。較べてすごいのではなくて、ただ「凄い」のである。

​僕は25才のころまではセゴピアの演奏は全く好きでなかった。妙に甘ったるく、不自然に感じられて、ほとんど聴いていなかったが、グラナダでレッスンを受けて、実際に演奏を聴いたときぐらいから、だんだんと自分のなかでの評価は変わっていって、今はセゴピア抜きにギターを語ることはとてもできない。

​セゴピアに興味を持ち続けている理由は、もちろん彼の音楽が偉大であるということが大きいのだが、それだけではない。「老い」へ答えがありそうな気がしているのももう一つの大きな理由だ。
​ギターは身体の運動抜きには存在しない、肉体は加齢と共に衰えていくのは必然である。スポーツの世界では故障やリタイアというのは当たり前という認識があるけれど、楽器の世界もそれがひっそりとしているだけで、プロ、アマかかわらず日常なのだ。
​つねに身体のメンテナンス、技術のバージョンアップを考え、実行するのを怠っていれば、はやい時期に身体が言うことをきかなくなってくるのは、すこしでも観察眼をもって経験者を見ていけば判ることだろう。10年ぐらいはあっという間で、気がつけば、ちっともレパートリは増えておらず、音楽性もたいして上がらず、という例はいくらでもある。

​セゴピアはそんな加齢にたいして実在するすばらしい答えの一つだと見る。 この録音のセッションはそれぞれ1日ずつで終わっている。ほとんどがテイクワン OK ということだ。セゴピアが「さあどうだ!」と言っているような気がする。

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