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体育

練習は身体の運動をとおして、自分自身をしぼっているものから限りなく解放されて自由に向かっていくプロセスである。
気をつけていたつもり(だけ?)だったが、実際は力に頼っていた練習がわざわいして、身体の自由がきかなくなった。一生懸命練習することが自由どころか、自分の首をしめていたということだ。それを機会に力ではない(おもに重力を利用した)弾き方の研究を始めた。

慢性的に必要以上の力を出すことを強いられた筋肉は、その余分なエネルギーで、みずからを傷つけるのではないだろうか。その筋肉は、いわば疲れた状態にあって、仕事をしろ、という(脳からの)命令がきても、ちゃんとした反応が起こるはずもなく、また脳へフィードバックされる内容もしみられて、次の運動に支障をきたす、という悪循環を招くのだ。

新しい弾き方(今もその内容は模索中であるので常に変化していて、決定版というものはない)に変えようとしてから6年ほどの年月がたつけれど、そうやって(徹底的に力によらずに)弾いてわかってきたのは、筋肉の負担にならない運動を探していると、運動の質そのものが変わっていくのではないかということだ。

当面はとにかくエラーの少ない状態になれば、と思ってやっていったのだが、結果としていちばんよかったのは音色のコントロールがしやすくなったということだ。えらく気をつけてしかできなかったものが、少しでもらくに弾けるようになってくるのは嬉しい。美しいポリフォニーの表現に欠かせない、極力薄いタッチも可能になってきた。

以上のような技術にたいする事柄以前の自分であれば、神経質になっていたのだが、今はまだ満足がいくというレベルではないにしろ、練習の気楽さはよほど増した。それは即、練習量の増加につながる。こういうスタイルの「体育?」があってもよいのではないかしら。

練習は身体の運動をとおして、自分自身をしぼっているものから限りなく解放されて自由に向かっていくプロセスである。
気をつけていたつもり(だけ?)だったが、実際は力に頼っていた練習がわざわいして、身体の自由がきかなくなった。一生懸命練習することが自由どころか、自分の首をしめていたということだ。それを機会に力ではない(おもに重力を利用した)弾き方の研究を始めた。

慢性的に必要以上の力を出すことを強いられた筋肉は、その余分なエネルギーで、みずからを傷つけるのではないだろうか。その筋肉は、いわば疲れた状態にあって、仕事をしろ、という(脳からの)命令がきても、ちゃんとした反応が起こるはずもなく、また脳へフィードバックされる内容もしみられて、次の運動に支障をきたす、という悪循環を招くのだ。

新しい弾き方(今もその内容は模索中であるので常に変化していて、決定版というものはない)に変えようとしてから6年ほどの年月がたつけれど、そうやって(徹底的に力によらずに)弾いてわかってきたのは、筋肉の負担にならない運動を探していると、運動の質そのものが変わっていくのではないかということだ。

当面はとにかくエラーの少ない状態になれば、と思ってやっていったのだが、結果としていちばんよかったのは音色のコントロールがしやすくなったということだ。えらく気をつけてしかできなかったものが、少しでもらくに弾けるようになってくるのは嬉しい。美しいポリフォニーの表現に欠かせない、極力薄いタッチも可能になってきた。

以上のような技術にたいする事柄以前の自分であれば、神経質になっていたのだが、今はまだ満足がいくというレベルではないにしろ、練習の気楽さはよほど増した。それは即、練習量の増加につながる。こういうスタイルの「体育?」があってもよいのではないかしら。

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