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標準

「わかる」ということは、文字通り「分けられる」ことから出ている。音楽が「わかる」ということも、そのへんから出発すると少し簡単になるように思う。クラシックを一度も聴いた経験がなくて、いきなり「マタイ受難曲」をきかされて「わかる!」と言える人は稀有な才能の持ち主である。
​ようするに比較するものを自分の中に持てれば、それはよくも悪くも「標準」になって、「わかって」いくのではないだろうか。

​僕の「標準」のひとつに長年聴き続けている録音がある。
もうかれこれ30年以上は聴いていることになるが、最初はLPで、それからCDにバトンタッチして聴き続けていているということになる。
​いちばん回数が多いのが、カール・リヒターのチェンバロ、指揮。オーレル・ニコレのフルートなどによるバッハの「音楽の捧げもの」。おりに触れて聴いて飽きることがない。この録音のあとにも(データには1963年の録音とあるから当然といえば当然)たくさんのちがう演奏を聴くことができるのだが、またリヒター盤にもどってしまうのだ。

​ほかに永く聴いているものをしらべてみたら、ビクトリア・デ・ロス・アンヘレスによるカントルーブの「オーベルニュのうた」。グレン・グールドのバッハの「インベンションとシンフォニア」「バードとギボンズ作品集」。クライスラーの自作自演集。ジャン・ユボーのピアノ、アンドレ・ナヴァラのチェロなどによる、フォーレ「ピアノ四重奏曲第1番」などがあった。

​どの演奏も憧れをもって聴いた。こんな演奏ができればどんなにか楽しからうと。今も昔もこれらの音を聴くと同じように心引き込まれることはかわらない。その引き込まれ方を含めて僕の音楽の標準になってくれているようだ。

「わかる」ということは、文字通り「分けられる」ことから出ている。音楽が「わかる」ということも、そのへんから出発すると少し簡単になるように思う。クラシックを一度も聴いた経験がなくて、いきなり「マタイ受難曲」をきかされて「わかる!」と言える人は稀有な才能の持ち主である。  
​ようするに比較するものを自分の中に持てれば、それはよくも悪くも「標準」になって、「わかって」いくのではないだろうか。  

​僕の「標準」のひとつに長年聴き続けている録音がある。
もうかれこれ30年以上は聴いていることになるが、最初はLPで、それからCDにバトンタッチして聴き続けていているということになる。  
​いちばん回数が多いのが、カール・リヒターのチェンバロ、指揮。オーレル・ニコレのフルートなどによるバッハの「音楽の捧げもの」。おりに触れて聴いて飽きることがない。この録音のあとにも(データには1963年の録音とあるから当然といえば当然)たくさんのちがう演奏を聴くことができるのだが、またリヒター盤にもどってしまうのだ。  

​ほかに永く聴いているものをしらべてみたら、ビクトリア・デ・ロス・アンヘレスによるカントルーブの「オーベルニュのうた」。グレン・グールドのバッハの「インベンションとシンフォニア」「バードとギボンズ作品集」。クライスラーの自作自演集。ジャン・ユボーのピアノ、アンドレ・ナヴァラのチェロなどによる、フォーレ「ピアノ四重奏曲第1番」などがあった。  

​どの演奏も憧れをもって聴いた。こんな演奏ができればどんなにか楽しからうと。今も昔もこれらの音を聴くと同じように心引き込まれることはかわらない。その引き込まれ方を含めて僕の音楽の標準になってくれているようだ。

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