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誰に習っているの?

人はなぜか、何でも習いたがるようだ。答をだれかから聞きたいのはことギターに限ったことではない。理路整然とした説明など聞けば「なるほど」と腑に落ちて心地よい。それだけでもけっこう満足できる。最近の美術館などで解説の聞ける機械のレンタルがあって、ずいぶん大勢の人が聞きながら鑑賞しているのも、その辺りの心理をついているからだろう。

しかし、ことギター(音楽と言ってもいい)はたとえ習って、答(弾き方の説明)を聞いたとしても、「話は判る」という以上のものはなく、とても音にはならないだろう。
ティーチャーは問題のフレーズを弾いて聴かせてくれるだろうし、解説もしてくれるだろう。よいティーチャーであれば、音も話もきっと納得のいくものになるだろう。ところがそれを自分の身体で実際にやるとなると、そのままでは使えない。各人の脳も身体もその性能はたぶんわずかずつ違い、その個体差からやり方を変え(アレンジ)せざるを得ないからだ。

手の大きさとか、関節の可動範囲の差。筋肉のレスポンスのスピードの差など、違う条件のもと、それをひとつのやり方でくくるのはどうしても無理がある。ティーチャーが示せるのは、ティーチャーのやり方だけである。ティーチャーの模範を参考(じっさいにそこで見たり音をきけるのだから、凄いことではあるけれど)にして、自分の感覚を頼りに、丁寧に練習を重ねることによって探し出してこそ、本人にぴったり合ったやり方は見えてくる。こういう地味な作業、こういう探究こそがギターの面白み、醍醐味なのだ。

スペイン語で「誰に習っているの?」は、Con quien estudias ? である。con=with, quien=who, estudias=study とすると判りやすいだろう。教える側も習う側も「学んでいる」ということを合意しているようなこのたずね方が大好きだ。

人はなぜか、何でも習いたがるようだ。答をだれかから聞きたいのはことギターに限ったことではない。理路整然とした説明など聞けば「なるほど」と腑に落ちて心地よい。それだけでもけっこう満足できる。最近の美術館などで解説の聞ける機械のレンタルがあって、ずいぶん大勢の人が聞きながら鑑賞しているのも、その辺りの心理をついているからだろう。

しかし、ことギター(音楽と言ってもいい)はたとえ習って、答(弾き方の説明)を聞いたとしても、「話は判る」という以上のものはなく、とても音にはならないだろう。
ティーチャーは問題のフレーズを弾いて聴かせてくれるだろうし、解説もしてくれるだろう。よいティーチャーであれば、音も話もきっと納得のいくものになるだろう。ところがそれを自分の身体で実際にやるとなると、そのままでは使えない。各人の脳も身体もその性能はたぶんわずかずつ違い、その個体差からやり方を変え(アレンジ)せざるを得ないからだ。

手の大きさとか、関節の可動範囲の差。筋肉のレスポンスのスピードの差など、違う条件のもと、それをひとつのやり方でくくるのはどうしても無理がある。ティーチャーが示せるのは、ティーチャーのやり方だけである。ティーチャーの模範を参考(じっさいにそこで見たり音をきけるのだから、凄いことではあるけれど)にして、自分の感覚を頼りに、丁寧に練習を重ねることによって探し出してこそ、本人にぴったり合ったやり方は見えてくる。こういう地味な作業、こういう探究こそがギターの面白み、醍醐味なのだ。

スペイン語で「誰に習っているの?」は、Con quien estudias ? である。con=with, quien=who, estudias=study とすると判りやすいだろう。教える側も習う側も「学んでいる」ということを合意しているようなこのたずね方が大好きだ。

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