大谷 環 エッセイ
「仏師の心」
1年ぶりに奈良に寄った。年に1度ぐらいのリズムで行っては気ままにぶらつくのが好きだ。日に寺をひとつか二つまわって過ごす。土地自体が持っている「気」みたいなものがいい感じがする。ここを都に決めた人の霊感みたいなものに行くたびに感心してしまう。
なんど行っても興味深いのが興福寺の国宝館。目的は阿修羅像(あしゅら)と阿形吽形2体の金剛力士立像。この3体と対峙すると「しっかりやっているのか!」という声が聞こえてくる。
科学的な彫刻に共通するのはエフェクトの否定である。たしかに極端なほどのデフォルマシオンがなされていて、それはかえって強いリアリティを生み、観るものに印象を残す。しかしそれは意図されていないのだ。ひたすら木を彫っているのだ。
この像を人が観たときどういう印象を持つかということは彫った人の眼の中にはないだろう。そこには癒しとか慰めもない。あえて言えば像の存在だけが目的である。その集中力はみごとだ。これらの像を見る度にこのレベルで音楽がしたいなあ、と思う。この強さに惹かれるのだ。音楽の存在だけが感じられる演奏をしたい。またそれができる生活をしたいと思う。
今回、初めて像を観ながら、これらを造った人々の生活に思いをはせた。みそぎもしたろうな、食も限っただろうなあとか、想像はたのしい。鎌倉、奈良時代というのは日本の彫刻が世界レベルで最高になった時期である。造った人たちは今のように情報や環境でスポイルされることなく、しかもその高いレベルをさらに研ぐ術も心得ていたように思う。それが仏師の常識であったのだろう。そうでなければ他にもある多数の傑作が生まれる理由が見つからないのだ。
宿に直行してギターを弾いてみる。いい刺激の後はいつも無性に弾いてみたくなるものだ。さて仏師の心意気でひくギターの音は……
