大谷 環 エッセイ
「独学」
ひとりでギターを学ぶことができますか?という質問に、ぼくは「できません」と答えることにしている。
この楽器の可能性はとてつもなく、個人のアイディアなど軽々と凌駕していて、先人の知恵なくしては学習はとても不可能だと思っているからだ。それこそ何代もまえからの知恵のバトンをうけとる必要があって、そのためにはどうしても先生につくことになる。
しかし学ぶということの基本はあくまでも「独学」の精神である。先生から受け取るバトンは、まず本物かどうかはなかなか見分けがつかない。受け取る側のキャリアが浅かったりすると計る手立てがないからだ。
先生が「真実」だと思っていても間違っている危険性はある。とくにこの世界で「伝統的にやっている」こととか「習慣的にやっている」とかいうことがらは考えずに受け入れられていることが多くとくに注意が必要だ。
一般的に信じられていることに、慎重にチェックを入れるのはけっこう楽しいことだ。そのためにはいつも立ち止まって注意深く考える習慣が必要だ。身体を整えることによって感覚を鍛えることも必要だ(からだがひん曲がっていると感覚がとてもわるい。「へそまがり」というのはまさに物理的な現象なのだ)。
独学ということは、どんなことも考えなしに受け入れない。ひとつひとつ自分で確かめていくということだ。
そのためには身体をとおして味わっていくための time(ある時間)が必要である。その瞬間には確かに納得がいっても、練習していくうちに味わいが変わるということもある。そんなときに過去にしばられずに柔軟に事実についていって、あたらしい径をさぐれる「やわらかい頭」こそ独学者(ママ)のキャラクタである。
簡単に信じるということはちゃんと考えないということと同じだ。仕事をひとつ省略している感じがする。
「疑い」は独学者の基本的スタンスであり、もっとも真実に近づけると思うけど・・・・。
