大谷 環 エッセイ
「質より量」
作家をはじめ文筆で生活をしている人の話を聞いたり読んだりすると、その量に毎度の事ながら驚く。読む量がちがうのである。1日1冊以上というのはあたりまえ。なかには1か月100冊を軽々突破というひともいたりする。インプットの量が違う。つまり読まない人は書けないということだ。もちろんその時間以外に日常生活あり、仕事なんだから執筆もしてるわけだろうから、やはり頭の中はどうなってるんだ、と感心してしまう。
音楽ではどうだろう。僕は音楽も同様に多量の鑑賞(インプット)があってはじめて演奏(をふくむ音楽活動/アウトプット)というアクションができるような気がしている。聴くことではじめて音楽のさまざまな文法(グラマー)と表現の種類にじかに触れることができるし、聴かれたものは記憶の奥にしまわれ、無意識のなかでそれまでの全体験とともに再構成されて次の判断の基準となる。
だから、たとえ聴いたもののディテールが記憶に残っていなくても、判断の土台固めにはなっているのだ。
聞き初めのころというのはえらくスピードがあるとか、大きな音がでるとか、たんにアドレナリンの吹き出す仕掛けのあるものにびっくりして簡単に「すごい」となってしまう(それはそれでいい)のだが、聴く量が増えてくるにしたがってその聴き方は自然に変わっていくものだ。いつまでも「大きい」「はやい」のみが「芸術的」という人はまずいないだろう。よいわるいはさておいて、大量に聴くことで審美感覚はみがかれるのだ。「いいか悪いかわからない」というのは聴いていないということにほとんど等しい。
質屋の2代目を育てつのにいちばんいい方法は「本物だけを見せる」ということを聞いたことがある。たぶんこれはベストの教育方法だろうが、私達すべてが芸術家の2代目ではないのでなかなか難しい。せめて清濁合わせ飲んで自分の耳を鍛えよう。
