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大谷 環 エッセイ
​「ラベル」


​ひさしぶりに倉敷の大原美術館に行ってきた。好きなモディリアニやビュッフェやモローなどの作品を楽しんだ。

 

美術館は日常にない静かで大きな空間も同時にたのしめるというぜいたくな場所だ。ひととおり絵だけざっととおして観て、気に入ったのがあればまた戻って作者の名前を確認するというのが僕の楽しみ方だ。

 

作者や一般的評価を気にせず見るのが好きだ。ときどき企画展なんかに行くと、親切のつもりなんだろうが、ああでもないこうでもないと解説が書いてあったりするが、まず読まない。邪魔にはなっても参考にはならないからだ。既成概念で感受性を鈍らせるのは嫌いだ。文章が最初に入ってしまうと、理性が理解?してしまうのが恐いのだ。

 

これはコマーシャルとおなじで、何度も言われたり、権威の発言などきいたりすると、それだけで鑑賞する側は条件付けられてしまって、自由な「味わい」を奪われてしまう。

 

音楽という抽象の場でも同じようなことが起こる。CDのライナーとか、演奏会のプログラムなどによくあるけど、例えば曲や演奏者の解説に「巨匠」だの「伝統」などという言葉が見えると、一瞬「はあ、そうかいな」とじっくりと考える前に一目置いて見て(聴いて)しまいがちだ。でも本当はそんな知識がなくても聴けるのが音楽でありたい。

 

いい演奏に聴き入っている時、言葉など不要なのはその場の自分自身を観察すればよくわかるはずだ。その瞬間は音だけになっているはずだ。解説は後になって読んでもじゅうぶん間に合う。順序が逆になると心細くなってしまう人もいるかもしれないけど、演奏会場に早く着いたのだったら、それこそその時間を心を落ち着けるために使った方がよほど気が利いてる。

 

ワインの好きな人はやっぱり数を飲んでいる。いいのも悪いのも飲んでいるのだ。そうしてはじめて、ラベルにだまされなくなる。​

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