大谷 環 エッセイ
「わからないという楽しみ」
ちょっとまともな音楽は一回聴いただけではなんともわからないものも多い。ギターでいったらたとえばバッハのシャコンヌを一回聴いてどれほどのことがわかるだろうか? もちろんすごい曲だ! とか、難しそうだとか印象を言うことはできるが、細部は記憶の彼方に消えてしまって、あいまいなままだろう。その後気に入って何度も聴くことによってこそ、どんどん深い味わいに変わっていくことができる。なんども聴いてみようというのは「わからない」がなせる技だと思う。
なんども聴いてみると今まで気づかなかったメロディが隠れていたのを発見できたり、音色の妙に感心できるようになったり、細かいニュアンスの差におどろいたり、それこそ発見はいつまでもどこまでも続く。ひとつの音楽のいろんな側面に気づくことができるようになるということは大変な楽しみ、喜びであり、同時にその人のセンスが変化(もちろんいいほうに)しているということも証明してくれる。この「わからない」のエネルギーの集積こそが文化をつくっていると言えないだろうか。
ギターの弾くということも「わからない」に満ちている。はじめはギターを構えることだって「わからない」し、音の出し方だって1週間ではわずかな見当もつかない。言葉でなんとか説明することはできるかもしれないが、わかったような気になるだけで、まず何の役にも立たないだろう。
練習をつうじて小さな発見をかさねていくことによって「わからない」を「わかる」に変え、また新たな「わからない」を見い出して次に進むエネルギとするのだ。
「わからない」ことを楽しもう。ひとつの問題がわかるためには、自分自身の変化が必要なのかもしれないのだ。最後に「わからない」とともにある、というスタンスもあることを忘れずに。ね。
